茨大工学部電気工学科を昭和五十八年の春卒業し、日立製作所日立研究所副参事として、大型コンピュータ用「セラミック多層配線回路基板」の研究開発に没頭していた。
数々の特許賞と技術賞をとった足跡と元気な頃の写真、作品を見ると胸が張り裂けるようになるのである。
机の中から、途上国援助のためアフリカの子供に協会を通じて送金を続けたこと、スキューバダイビングの免許を取ったり、手話の勉強をしていたことなどが出てきて涙ぐむのである。
人の一生なんて本当に分からないものである。
桜咲く日研の坂が疲れるとのことであった。あれから一年、妻の看病がはじまった。
私も、紅葉が木枯らしになり一段とさびしさの増す中、トンネルを越えて夢中で病院に見舞う毎日だった。
石走る 垂水の上の 早蕨の
萌えいずる春に なりにけるかも
夕べの雨も早く上がり、光の輝きにも春を感じる頃となった。
青い空、窓を開け息子に見せる。
「こんな空の下で釣りができたらいいな」と言う。じっと見て思い込む。心が引き裂かれる思いだ。つらい。
悪い病気で、自分は助からないと思ったのであろう、担当の医師と看護婦さんに礼を言った。
花が好きだった息子。
窓から紅梅が咲いていたことが、今でも眼に焼きついている。
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